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別府社長の手帖15
「一番目の事実」
文章 別府倫太郎 2014年9月30日更新
さいきん、よくこんな言葉を聞く。
「事実関係を確認中です」
「事実確認ができませんでした」
わざと、あいまいにしといて、(あいまいに思わせて)
そこで揉みけしてしまう。
そんな言葉だ。
しかし、ぼくたちは、普段、事実関係を確認しているだろうか。
事実とは、そこにあるもの全部ではないだろうか。
事実関係を確認中という事実があるではないか。
ぼくは、そう思う。
だけど、とくに「学校」というものは、
そういう言葉をつかいたがる。
ぼくは、学校に行っていないから、生で学校を感じられる。
「わからないこと」をわからない、と言えない学校を感じられる。
でも、そもそも「事実」とは何か。
ぼくは「いじめ」というものを「からかい」にすりかえてしまう、
学校のようすを見ながら、考えた。
そのすえにぼくは、「わからない」という事実を知った。
それでいいのだと思った。
でも、学校は、わかりもしないその事実を
確認しようとしているのだ。
学校の人たちの頭のなかに何の「事実」があるのだろうか。
なんの「本質」があるのだろうか。
さきほど、「すべてのことが事実だ」と言ったが
学校だけはちがう。
そこにある、いじめを、そこにある、差別を認めない人たち。
それは事実を否定しているということだ。
そして、もう、みなさんはTVを見ているとわかるはずだ。
いじめのニュースの中で、学校側が言う
「事実関係を確認中です。」という言葉。
それは、事実すらない、「虚無」をもった人たちが
言う言葉だと思っている。
ぜひ、そのことだけは、頭においといてもらいたい。
ところで、その「虚無の人たち」は、こう言う。
「ケガでもしないと、いじめとは判断できません」と。
それは、まるで「死ね」と言っているようなものだ。
「自殺をしろ」と。
それでも、ぼくは今、事実と感情だけでこうやって書いている。
つらい、つらい、いたい、いたい、
だけど、そこには、事実がある。
そして、ぼくは、まず事実という「感情」を伝えていきたい。
つまり、「感情は第一の事実である」ということだ。
そのあとに行動や、言動という言葉がついてくる。
まず、さいしょに「いかり」、「かなしみ」、「むなしさ」
など、感情という事実をぶつけるのだ。
だけど、今、その感情と事実が足りてない。
そして、事実の中の感情が足りていないので、
そこが「虚無の人たち」によって、事実を
「虚無」にされているのだ。
もしかしたら、ぼくもその虚無によって、想像のなかでの
体の半分ほどが失われているかもしれない。
でも、その半分をつかって、ぼくは、
全てに感情をぶつける。
ぶつけると、あたなもぼくも、いたいかもしれない。
でも、そのいたみは、事実だ。
「虚無」というのは、いたくないけれど、事実はいたい。
そして、その、いたみは、生きる力になる。
そういうことだ。
さぁ、ところで、そろそろ虚無がせまってきている。
でも、大丈夫だ。
今、あなたは「いたみ」と「生きる力」をもっている。
それを感情でつつみこめば、きっとそこには、「事実」がある。
だから、きっと、きっと、大丈夫だ。
きっと。
作者
別府倫太郎 プロフィール
2002年12月5日生まれ。
新潟県十日町市在住。
3年前から始めた「別府新聞」の社長でもあり、
別府新聞のたった一人の社員でもある。
「学校に行っていない思想家」「ポレポレぼうや」など
色々な呼び名がある。