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別府社長の手帖13
「いじめという意見」
文章 別府倫太郎 2014年9月25日更新
さいきん、テレビでも、どこでも、「いじめ」という
言葉を見る世界になっている。
そこで、ぼくは考えるのだ。
「いじめ」という言葉の存在とは?
意味とは?よーく考える。
そして、考えた結果、僕は「いじめ」という言葉の
「存在のあり方」がダメなんだ、大嫌いなんだ、
ということにたどり着いた。
そして、ぼくは、なぜ嫌いなのかを考えてみると、
一つ浮かんできたのだ。
「もしかしたら、ぼくは「いじめ」という言葉じたいは
否定しないけれど、「いじめ」という言葉に「意見」を
もたせているのに反発しているのではないか」
と思ったのだ。
というのも、言葉というのは、「考え」のはずだ。
とたえば、「自然」という言葉を聞くと、
その人々の思い出や、思いがうかんでくる。
けれど、「いじめ」という言葉を「いじめをなくそう」と思う。
しかし、これは「意見」ではないのだろうか。
なるほど、「意見」をもつことはいいことなんじゃないかと。
しかし、「意見」をもったら、そこに「考え」は
ないんじゃないんだろうか。
「いじめをなくそう」という意見だけで、いじめたことについて
責任、覚悟、罪ももつことができない。
つまり、意見をもつということは「外から」見ることだ。
だけど、ぼくは内から外を見ざるをえない。
外から見ることは簡単だ。
「意見」をもてば、その時点で「外」だ。
だけど、それは、ほんとうの「外」ではないことに
あなたは気づくだろう。
内から見える外というのが、本当に存在する「外」なのだ。
内から見える外が見えてくると、人間は色々なもにに気づくのだ。
幸福、むなしさ、そして、生死へのまなざしにも。
そして、さきほど、意見は、罪や覚悟に気づけない、
と言ったが、その逆で、内から外を見ると
自分のいや、すべてのものがもっている、
苦しみや、「罪」に気づく。
その「罪」が、また力になり、一生、背負いつづけるのだ。
その姿は本当にうつくしい。
逆に言えば、「意見」をもち、罪にフタをする姿は本当にきたない。
ぼくには、そう単純に見えるのだ。
だから、そういう意味では「いじめ」という言葉もきたない。
つまり、罪から逃れることが「罪」なのだ。
そして、罪を感じるということは、色々なものに
「まなざし」をむけるということ。
「罪へのまなざし」ということだ。
しかし、その「まなざし」を意見は消す。
「罪を隠そうとする」意見は、
「考える」ことを「罪」を消す。
だからこそ、ぼくは思った。
意見をもつことより、生きていることのほうが
断然、すごいことなんだ、と。
それだけは忘れえない。
そして、僕は、意見をもつことはやめるが
「生きること」をやめないと思う。
それだけは、本当の話しだ。
作者
別府倫太郎 プロフィール

2002年12月5日生まれ。
新潟県十日町市在住。
3年前から始めた「別府新聞」の社長でもあり、
別府新聞のたった一人の社員でもある。
「学校に行っていない思想家」「ポレポレぼうや」など
色々な呼び名がある。